【私の“サードプレイス”】
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デイリーレポート

出会いの秘話など深いお話で盛り上がった最終日(その2)

出会いの秘話など深いお話で盛り上がった最終日(その2)

Kyoko

2019年08月23日 金曜日

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(中西さんの投稿の続きです)
▶続いてセカンドセットのレポートをおおくりします。当夜は入れ替え制でしたが、ファーストとセカンドを通しで聴く客も多数(かくいう私も)。セカンドからの客を迎え入れて満員ではじまったセカンドセットは、さらに盛り上がって親密なアイコンタクトの中熱いセッションが繰り広げられました。小曽根さんに大阪弁の先生と呼ばれるドイツハノーファー出身のドラマーデニス・フレーゼを、ときどユーモラスに話題をふる小曽根さん。一方、そのリベンジは演奏で果たそうとするデニスは、メリハリのはる繊細なドラミングで、聴衆を惹きつけてゆきました。小曽根さんをリスペクトし、一緒に演奏できることをこのうえない幸福だと信じて止まないミュージシャンたちによる演奏がすばらしくないわけはありません。最終曲Kato’s Revenge の長いソロを終えて全身全霊での演奏を終えたデニスの、充実した表情を忘れることはできないでしょう。
▶アンコールは、再びペコさんがステージに呼び戻されて一曲。京子ママは求めに応じて「未来が見通On A Clear Day You Can See Forever”となりました。ペコさんに熱唱にもより磨きがかかって美しく歌い上げ、聴衆が再びジャズソングの魔法にかかったところで、三日間の公演はすべて終了となりました。すかさず小曽根さんが「京子ママ!創立45周年おめでとうございます!」「これからの次の45年も頑張ってください」。大きな拍手の中、ママのにこやかな笑顔がさらに美しく輝いたことはいうまでもありません。これからも南青山にあるジャズの聖地BODY&SOULに足繁く通おうと思います。みなさまもぜひありがとうございました。
▶2nd stage…♪Bouncing in My New Shoes…中村「僕は1988年にバークリーに留学したのだが、その年浜松で、バークリーの教授陣を迎えて二週間ほどのセミナーが行われた。僕は留学直前だったが参加した。その中に小曽根さんもいたが、いわば雲の上の人で、声をかけることすらできなかった。最終日、教授陣と受講生のパーティがあって、僕がキャノンのオートボーイというカメラを持っていたので、写真を撮ることになった。ところが全員が並んだほうに向かってシャッターをきったら、フラッシュが発光しなかった。そのときすかさず『自分、人生はタイミングやぞ!』と言ったのが小曽根さん。これが僕たちのファーストコンタクトだった。
1999年。ニューヨークの道を妻と歩いてたら、向こうから小曽根さんが奥さんと…。いったん通り過ぎてから『小曽根さん』と声をかけたのが再会。あれから20年間お世話になっています。」
小曽根「ユニオンスクエアの近くのユニバーシティプレイスというところ。あのとき僕の妻は、向こうからかわいい日本人の女の人が歩いてきたので、じっと見つめてしまったらしい。いったん通り過ぎてから『小曽根さん!』と声をかけられたから、『あっ、知り合い!それはまずい』と非常にあせったとか(笑)。」
♪Tangerine…小曽根「デビューしたてのころはスタンダードが嫌いだった。というのはスタンダードを演奏すると、オスカー・ピーターソンの言葉で話してしまう。オスカー・ピーターソンのものまねにしかならない。しかしレコード会社の提案を受け入れて、日本国内向け限定ならとアルバムを制作したのだが、集まってくれたメンバーがジョージ・ムラーツ(僕はずっと日本人(村津穣治)だと思っていた)とロイ・ヘインズだった。レコードの中でしか聴いたことがない大物が、目の前で動いている。演奏している。感激したのだが同時に緊張もして、僕は途中で弾けなくなってしまった。そうしたらプロデューサーをお願いしていたゲイリーがやってきて、あの人ピアノがとても上手なのだが、「ここはこうやって弾けばいいんだよ」とやってみせてくれてた。じゃ自分でやれよと(笑)。しかしそれで切り抜けた、そのときを思い出す曲。」
♪Waltz For Ronko…小曽根「僕はワルツが好きで数曲書いている。その中の一曲。Ronkoはボストン時代に飼っていたミニチュアドーベルマンの名前。言わないと犬の名前だとは誰も思わないだろう。」
♪I Need You Here played by TRIO…小曽根「ファーストアルバムから一曲。とても意味深なタイトルだが、YOUが誰かは秘密。」
♪Yellow Fever
♪Kato’s Revenge…小曽根「ゲイリー・バートンのバンドに入ったとき、ゲイリーを含めてメンバー全員が僕のことをMAKOTOと呼びにくいと言った。それでついたニックネームが”KATO=ケイトウ“。ブレイク・エドワーズ監督のピンクパンサーシリーズで、クルーゾー警部の助手をつとめるのがそのケイトウという東洋人で、警部を鍛えるために突然クローゼットから飛び出てきて、警部を襲うという非常にコミカルな役だった。僕にその名前がつけられた。(イヤといえない日本人(笑))。
ツアーを回った最初の数ヶ月、ステージのファーストセットとセカンドセットの間は、ゲイリーの小言を聴くのが仕事だった。『僕の弾いた四分音符のうしろで、君は八分音符を引いたいたけど、無駄だからやめてほしい』とか。常に非常に細かい小言なのだが、いちいち音楽的に理にかなっていて、納得がゆき、非常に勉強になった。しかし、いつか音楽的に復讐したいとも思っていて、それには彼が演奏できないような長く難しい曲を書けばよいだろうと思って書いたのがこの “Kato’s Revenge”。ところが、この曲を書き上げて、ゲイリーのところへ持っていったら、初見で見事に弾いてしまった、つまり復讐にならなかった。(笑) この曲を30年ぶりに演奏する。最後一緒に終わることができれば幸いです。」
アンコールは♪On A Clear Day You Can See Forever…with Kimiko Ito(vo)

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